日々の雑記

どうでもいいこと

4月20日(土)

なんかもう色々不安定だし、なにかしないと落ち着かないしただの自分であることがいやっていうか、何者でもないんだなって。あたしはただのあたしでしかなくてそんな自分がここにいて息をしていることすらいやだし、何者でもないくせにどうして詩なんか書いているんだろう。そんなん、自分がすごいというか、自分がそちらに才能を発揮すると思っていなきゃできないことでさあ、詩を書いたってなんだってそれはどこにでもありふれたものでしかないとわかってしまったら心も折れるよね。消えたくてしかたない。とりあえずなんかすごい人になりたくて、でもそれと反対に現実はふつう、あまりにもふつう。泣きそう。泣きそうなのは今自分が不安定だからなんだけど。授業がはじまって一週間のうちは楽しかったしだいぶ心にも余裕があったのに日曜日をすぎたあたりからもうなんだか余裕がないしなにもかも嫌って気分。それはあたしとは関係ないからまあ大丈夫だろうとは思っていたけど、ちょっとつらそうにしてしまった。あまり表には出したくないんだけど。

 

今もその気分が抜けなくて焦っているからこうして書いている。とにかくなんかさみしいのかもしれないね。今日はバイトを休みにしておいた。店長が勝手にあたしは土曜日出勤できないと勘違いしていて今月は日曜日だけしか入ってない。自分の様子も最近よくないのでまあいっか、と思った。5月ごろがいちばんきついというし。

 

あたしは何者でもないかもしれないという焦りとか不安は、結局詩を書いていくことでしか紛らわせない気がしている。とくべつではない私にあらがいたいとかではなく、漠然とした不安や焦りのために必要な支柱みたいなそんな感じ。添え木?うまくバランスがとれなくてぐらぐらするところにちいさな木の棒の端くれを置いてみるみたいな。発狂したい……。

 

 

☆★☆

 

 

もうお昼だ。どうしよう……。とりあえず不安だしなにかしてないと落ち着かない……。自分一人でいるのがこわいな。かといってどっかに行く気にもなれないしさ。せっかく今日休みなのにどこかに行ってしまうと後々疲れるし……。本にも集中できなくて困るし、とにかくなにかつくらなきゃ……書かなきゃ……みたいな感じで。今なんかとにかくもう……もうね。

 

書いてたら外晴れてきた。なんか前向きになってきたわ。うじうじ言ってても仕方ないね。ちょっと元気でた。まあいいや。え?よくないかも……。YouTube眺めてるだけで終わりそうな感じもする。詩を書く気もなくなってきたしなあ。

 

4月16日(火)

昨日、日記まがいのブログを書いていて、読み返すと何でもかんでもわかった風になっている自分がとても気持ち悪くて嫌になってしまった。ひねくれて世界を見て、私の見方こそが正しいみたいな、信仰みたいなものの中で生きてて、一つ一つ判断していくやり方が気持ち悪い。格好つけているのが嫌。


格好つけないと書くことがないしなぁ。自分が好きでいられる自分で日記を書いていたいけど、どんなものを書いていけば格好をつけずに済むのかな。大体これは日記とは言っているけど、人に向けて書いている時点で日記ではないし……。私だけの日記は誰にも見せたくないし、人が見ても意味のないものだと思う。


スマホで文章を書いているから、考えが深いところに落ちるまえに書いてしまっているというのもあるかも。もっと考えてからものを書かなきゃなぁ。ブログってそんな気負うものでもない気がするけど、格好つけるのは嫌だから。


☆☆


本を読みすぎた、言葉にとりつかれた副作用みたいなものかもしれない、とか考えてみた。妙に落ち着いてしまったし、どこかの言葉の受け売りや、私の


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……。情報量が……。……。おおい……。

コナンの映画を友達とみてきたけどいろいろワーってワーッってなってワーッってなってる……

4月15日(月)

授業の終わりに図書館に行った。『伯爵と妖精』を借りにだ。貸出中だったものは、電子書籍で買って読んでしまった。後は図書館にあったから、先客を越して読めているわけだ。……よくよく考えたら、先客が可哀想だ。早めに読んで早めに返しておこう。

妖精に関心があったから、以前に興味をもったちくま文庫の妖精図録みたいなものを借りてきた。昨日、妖精はほんとうにありそうなところがいいなんて分かったような口をきいていたけど、そんなわかりやすいものではないと思い知った。きっと、もっと複雑で独特だ。その土地やその土地で暮らしている人の伝承であって、私らみたいな日本人はへぇと感心しながら見ることしかできない。


だんだん学校や人のことを書かなくなってきたな。関心がもう逸れていると思う。そもそも人に対して言うことをうまく掴めない。見当違いなことを言いがちだし、読み返しても恥ずかしいばかりだ。


言いたいことがないわけではないのに、現実のことを書くとどうしても人と関わるときの自分を見つめてしまうみたいで居心地悪い。人と関わるときの私は芯からそこに存在していると言えない。本当にだれかに共感してほしいことは誰にとってもわかりやすいような言葉にできないし、伝えようとしても伝わらない。


そんなことはどうでもいいね。言っててもつまんないし。

今日はフルコマだったのにもかかわらず、そんなに疲れない。話を聞く振りをしてぼーっとする技術が身についてきたかもしれない。いや……効率のよさを追い求めた結果だと思いたい。最近、とにかく時間が欲しい。なぜなのかわからないけど、本を読む時間と何かを書く時間をとらないと不安で仕方ない。課題もいかに早く終わらせるかがカギで、いかに面倒なことを早く済ませてしまうか、順序を考えておくかが大事になっている。そうやって確保できた時間は、今のところ『伯爵と妖精』を読む時間、そしてこの日記まがいのブログの時間につぎ込まれているわけだけど。

でもそれだけでも不安になってきていて、とにかく何か知りたい気持ち。この世界のことを少しでも解像度高くしたいという気持ち、焦り。気持ちわるさ。うん、気持ちが悪くてしかたない。何を知ればいいのかなんて分からないけどとにかく視界がもやがかったみたいにずっと気持ち悪くて。


ああ、この日記だって、本当は紙に書いた方がいいんだろうな。でも一人っきりで書ける時間がとれないことも手軽さもあってこっちで続けてしまう。良くないんだけどね。


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人に向けた日記の自分ってどうしてこんなに嫌いなんだろう。

4月14日(日)

一昨日くらいに書いた、自分のことをどこも信じられないという感覚。すべてそこに集約している気がして、私は私で信じられる自分をつくっていかなければならないのにできてないという気持ち悪さにとりつかれている。今すぐにでもこの世界のことを解釈し、考え尽くし、嘘偽りのない言葉で示していかなければならないような。嘘をついたらだめなのだ。そんなのは気取った私でしかなくて、他者のために格好をつけた何かでしかない。中身が伴わなくて気持ちが悪い。そんなものを「私」だと認識されるのも癪だし、なによりそんなふうに他者のまえで何かを演じてしまう自分のことが許せない。だから私には何も言えなくなるのだけど、何も言えないとわかっているからこそ、今すぐ私は私の目でものを見て、判断していかなければならない焦りがある。嘘をつかない、よけいな言葉をつむがない人にならないといけない。自分のことをどこも信じられないぶん、まっさらなところがあって、そのまっさらさゆえに自分はずっと苦しんできた気がするけど、かわりにどこまでも透明な、川底がみえるような水にならないといけない。そのためにはきっとものすごい量のことを考えて、書いて見つけていかなければならない。私はまだまだよどんでいる。そんな気がする。

 

話は変わるけど、『伯爵と妖精』を読んでいて、小さい頃に読んでいた物語をよく思い出している。セルキーやら、フェアリーリングやら、子どもながらにそういうものの存在に惹かれていたことを思い出す。とくにフェアリーリングの伝説は好きだったなあ。ほんとうにありそうなところがいいのだ。とても身近で、よく知っているけどわからない。妖精といっても、きらきらきゃぴーんな感じの、フェアリー☆って感じの妖精ではなくて、醜いものもあれば人間サイズのものあれば動物の姿のものもあるような妖精。『伯爵と妖精』の世界観ではきちんと伝承に基づいた妖精が出ててくるので、そういうところに昔読んでいたものを思い出して懐かしくなったんだろうな。

 

ほんとうにありそうだから惹かれる、と思うけど、妖精自体の姿が見えるとか、いるに決まっているとか、妖精の世界があるはずとか、盲目的に信じるのとは違うよなあと思う。ただ身近にある小さな痕跡に、そういうものの存在があってもおかしくないと思うような、空間のようなものがあって、そういうところに何かを感じてしまう、そこに「妖精」という名まえをつけると不思議と納得がいってしまう、よく知っているような気がしてしまう。なんでなのかはわからないけど「妖精」のそんなところに惹かれる。以前ファンタジーのことについて調べていたとき「妖精学」というものがあるのを知った。たしか図録のようなものもあった。当時は興味がなかったけど、ちょっと調べてみようかな。

4月11日(木)

再履修する科目で、また1年生の中に混じるのではないかと不安になっていたけど、1年生はかなり少なかった。ほとんどが留学生と他学年で、とくに気後れすることもなく(先生はあれ、と思うだろうけど)参加できた。まだ1回目だからというのもあるだろうけど面白かった。とりあえず、身構えなくてもいいようだ。


何気なく借りてみた『伯爵と妖精』(コバルト文庫)が面白くてハマっていて、一日が終わってこの本が読めることが楽しみでこの1週間を過ごしていた。6冊借りていたのを読み終わりそうだったので新たに借りに行ったら、まさかの先客がいたみたいで、いくら探してもなかった。全33巻だから、全部揃っていると思っていたのに。チェックしてみると「貸出中」となっていた。長くて2週間待たなければいけない。しんどいなぁ。続きが気になってしかたないし、これを糧に他のことをこなしていたのにこれから何を支えにして日々を過ごせばいいんだ。生殺しだ、と思いながら他の本を探すけど、続きが借りられなかったショックでどれも読める気がせず、結局なにも借りずに帰った。


せめて予約しておこうと思って図書館のサイトを開いたけど、パスワードを忘れているし、再発行しようとしてもなぜかメールアドレスが認識されない。予約できないということだ。モヤモヤする……。


手元にある『伯爵と妖精』の最後の一冊がまだ半分くらい読み残しがあるので切り替えて読んでしまおうと思ったけど、続きがしばらく読めない悲しさでなかなか集中できなくて閉じてしまった。


困ったなぁ。これから何を読もう。気分がもう『伯爵と妖精』になっているから西洋風ロマンス以外受けつけない気がしている。借りる本も選べなかったのに、これからどうやって生きていこう……。

4月10日(水)

今日は楽な時間割だ。同じ学年の子たちと同じ授業しか入っていないし、楽だった。想定外の量の課題を出されたけど、授業も早く終わるし、ラウンジに残って一気に片付けた。課題のせいでやりたいことができないのがいや。先延ばし癖がものすごくて、高校でもなかなか課題を出さなくて今までたくさん痛い目を見ているから、この年になってようやく自力で管理できるようになってきた。自分の時間やペースを奪われるのが苦痛で、やらなければいけないことをやりつつ自分の時間を確保するためには後回しにしないのがいちばんいい、と1年でさんざん苦労して学んだ。

 

今日はなにかあったかな……。そういえば、友達のひとりからインスタのリクエスト?が来ていて、ちょっと動揺した。今でも動揺しているかも。1年生のころから話してはいたけど、今日、突然リクエスト。思い当たることはある。私から彼女に話しかけたから……だと思う。聞きたいことがあって聞いた、それだけだけど。え、それだけ、と思われるかもしれないけど、私は多分自分から人に話しかけない。多分がつくのは今まで自覚していなかったから。まわりの子たちはよく知りもしない私(しかも自分からは話してこない)こんな私によく声をかけてくれていたな、と思う。申し訳なさと、周りの子たちの親切さでなんともいえない気持ちになる。

 

話しかけることでの気の遣い方、みたいなのが私にはハードルが高くて、ときどき自分はとんでもなく図太い人間にうつっていたんじゃ、と思っていたたまれなくなる。感じがわるかっただろうか? みんな開かれたところにいるのに私はそうではないという不安。気軽な会話ですらひやひやしながら話すのに……。今日だってだいぶ勇気をもって彼女に話しかけた。それでリクエストが来たので、ほかの人がどんなふうに人と繋がるか、友達をつくるのかちょっと見えたような気がした。そんなことを言って、自分から話しかけなかった私のほうが気を遣わせていたりしただけなのかも。

 

授業がはじまる前の雑談で、だれかが「友達いない」とぼやいていて、ちらほら共感の声があがっていた。そのうちの一人が「その場で一緒にいる人がいればいい」と言っていて、本当に友達がいない状態を知らないんだな、とちょっと思う。その場で一緒にいる人をつくるのがどれだけ難しいか。できてもその場で一緒にいるだけの友達しかできない、というのが正しい言い方で、「その場で一緒にいる人がいればいい」なんてこと言えない。最低限が私にとっての最高限界地点すぎた。

 

私ほど社交性の低い人間を見たことがない。加えて、自分と同じような人がいないと思えてならないのが、「自分」の正しさを信じられないところで、ここらへんがずっとつらかったことだし、今でも悩みになっている気がする。自分の考えていることも、感じていることも、感情も、表に出そうとすればほんとうにそうなのか自信がなくなる。みんなが「こうすべきでしょ」と怒れることを私は怒れないし、話し方から、話す内容から、気の遣い方から、これでいいという確信がどこにも持てなくて、ほかの人を観察して真似してばかりいる。みんなが当たり前に確信をもってやれていることが、私はどこにも確信がもてなくて、合っているのか全然わからなくて、何も言えることがなくなる。どこにも「自分」がないという感覚。自信なさげに見える人でも、話してみればその人の揺るがない「自分」という態度が見えて、私と違う、と思ってしまう。

 

同じような人はいるはずなんだけど周りに見つけたことがなくて、この人はそうかもと思っても、私が確信を持てていないところに確信をもっていることがわかると、いつもがっかりする。

 

なんで信じられるのだろうか。どうして自分が正しいと信じられるんだろうか?自分の感情が正しいか疑問に思わないんだろうか。自分が知っていることや思うことが本当に正しいのかなんてわからないじゃないか。わからないから言えないじゃないか。

 

でも私にだって「自分」はあって、ないわけではないと思う。ただそれは外側には向かないだけなんじゃないのかな、と思う。「人に見せる」自分になったとたんに、それは全部くずれて、私にはなにもなくなる。だから他者に向けた自分には、たぶん「自分」はどこにもいないのだと思う。いないのがばれないようにしながら、いるように見せかけているだけなのだと思う。人に向けた自分も嘘ではなくほんとうの私だ。でも、それが全部ではないし、決して本質ではないという気がしている。

 

きょうあったことを書くつもりが、いろいろ考えてしまったな。

 

 

4月9日(火)

2年生の授業が始まった。1年の前期でけっこう単位を落として、再履修する科目が多い。今日も1年次の授業に参加した。隣の子が初対面の私に話しかけてきてくれるので、綱渡りみたいな気分のまま会話した。昨日受けた1年次の授業で話した1年生は、2年生だとわかっていてタメ口のまま話してくれた。タメ口で話すということは知らないんだろうと思ってじつは2年生だと伝えてみるととくに反応がなかったので、大人だなあと思いながら少し恥ずかしくなった。

それで今日受ける授業でも2年生だとわかってタメ口で話しているのかなと思って黙っていたのだけど、そのうち相手が私のことを同じ1年生だと思っていることが判明したので、違う学科の2年だと言ってみると、「そうだったんですか!?」と驚かれた。「え、敬語、タメ……」と迷ったあと敬語に切り替えたみたいで、これからよろしくお願いしますと言ってくれた。同じ状況でも、敬語を使うか使わないか人によって違うんだ、と思ってびっくりした。言うか言わんか迷って、と動揺していらないことまで口走った。
他学科の1年生のクラスはやたら元気で騒がしくて、気負わず話すタイプの子が多くて、高校の頃を少し思い出した。そういえば高校のクラスには騒がしい人も大人しい人もいたな、と思った。それを忘れていたのは、同じ学科の同級生たちがやたらと落ち着いているからだ。大人びている人たち。

年次が違う授業に参加することはそこまで珍しくないだろうしそんなに周りも気にしないだろうということは分かっているけど、居心地が悪い。これからこの授業が14回もある。でも再履修してこうして1年生にまじって授業に出ているだけとても偉いしすごいことなのだと思える。大丈夫。この前期が過ぎ去れば楽。



今日のお昼休みのとき、友達と先生の話になった。私の苦手な先生の話。教職科目を教えている先生で、元高校教師だ。
その先生の受けもつ授業では、中高の授業の仕方を教えるみたい。その授業の先生は「怖い」と言われているらしい。「怒る」んだと。人間の裏表を見たみたいでひやりとしたけど、やっぱりなと思う。友達が「元高校の先生だから……」と言っていて、それもあるだろうなと思ったけど、「なんか、寛容そうに見せかけて狭量な感じがする」と言ってしまった。「そうね」と納得してもらえたけど、ちょっと迷った後に「そういう所が嫌いなんだけどね」と言ってしまった。これは余計なひとことだったかなあとか考える。みんな嫌っていないのに私だけ異様にその先生を恐がっているから、あんまり言わない方がよかったのかも、とか。怖いと感じる私がなにかひねくれている気がして、いや。正確にいうと、怖いのを「嫌い」と言ってポーズをとっている自分がいや、かな。