日々の雑記

どうでもいいこと

12月2日(月)あやしうこそ

自分の問題は生々しすぎてあまり書けない。だれにも見せたくないような、自分の自己中心性に呆れたくなるようなことばかりだから身近な人に見せられることって全然ないよ。どうしてみんな自分のことをああやって書けるのかな、私は無理。うまく距離がとれないっていうのかな、こういうの。いま気持ちがつらいから暗いことばかり書いてしまうかもしれない。見返したらまたバカバカしくなるんだろうな。

 

書こうと思ったのは自分のもやもやっとした考えを可視化するため。わかったつもりになるのがいちばんタチ悪いってわかっていながら案外自分がその罠にかかっていると思う。このあいだnoteに詩について書き出してみたんだけど、かなり自分の頭の中の理屈に固執していて、話が飛躍してることに気が付かなかった。根拠って大事だとこういうときに思った。頭の中の理屈といっても、さんざんノートに書いてきたと思っていたんだけど、そしてその考えに妙に自信を持っていたんだけど、ただ「こう繋がっているんじゃないか!?」という直感による網をかけただけで、根拠は何もないし、いざ説明しようとしてみると何も説明していることになっていなくてがっくりきた。こんなのに長い間私はこだわっていたんだと思った。時間の無駄じゃないか。

 

考えているって言っても、何を考えているんだろうなあ。何も考えていないし、何かずっと常に考えているとも言える。でも、最近、何も考えていないという立場に甘んじることはやめようと思った。書くことで、文字にしてはっきりとした断定や判断をしてしまうことで、何かを見落としたり、何かを傷つけたり、間違った方向に思い込みが進んでいく。それがいやで、いつもつねに柔らかい人でいたくて、考えることを放棄してわたしは何もわかりませんというスタンスでいた。だけど、何も考えないし、何もわかりませんというスタンスでいるわりに、やっぱり醜く他者を判断したり物事を判断している自分がいることは感じていたし、なにより他人といる中で、私は何も判断しませんというぼんやりした姿勢しか持たないのは卑怯な気がしてきた。創作のことに関しても、何もわかりませんではその先に進めないのだと思う。しっかり自分のわかっていることとわかっていないことを明らかにして勉強していかないと。ただし文字にとりつかれないように。

 

だからといって、「判断しなければならない」が先に来たらだめだ。何のために判断することに決めたのか、本末転倒になって、自分が傷ついていく。些細な勘違いが重なることでつらくなっていくと思う。表面のことだけですべてを判断したくない気持ちは同じ。それはずっと変わらないし、変えていきたいとも思わない。考えるべきことと、考えないでいいことの区別をつけたほうがいいのかもしれない。それもまたひとつひとつ考えていくというより、流されない自分を見つけていくことが重要かなと思う。その芯があってはじめてあたしがあたしとして機能していられる、うそのない正直なわたしとしてここにいられるんだと思う。

 

いつも疲弊してくのは、些細なことの積み重ねだ。いつもなら周りに合わせてしまうことを無視して行動したことで、みんなが無視していることを私は無視できていないんだと気が付いた。いつもならいくら車が遠くから来ていても車が止まってくれるのを待って横断歩道を渡るのだけど、その日は「そっちが止まってくれ」という気持ちで横断歩道を渡ることができた。なんだ、みんなこういうふうにしていたんだ、と思った。車からしたら今までの私は「渡れよ」って思われていたかもしれない。他者を優先するなという話ではなくて、きっと過度に他者を優先しすぎて、逆に迷惑になっている。自分も意思を持たなければそれなりに迷惑はかかってしまう。それはどうしてだろう、と考えてみると、みんながそれを前提として動いているから、という答えしか出てこない。ある程度は自分の問題として、ある程度は他者の問題としてわきまえている。その線引きをみんな無意識にできている。私はできなくて、かなり努力しなければならなかった。自分が理由もわからず他人の迷惑になっていることは苦しい、すごく理不尽。無意識にできる人はすごく恵まれていると思う。親か、だれかが、それを教えてくれたんだと思う。

 

【日記】

ここからはもっと雑多に、今日や最近のことなど。今、クラスで冊子を作るグループワークをやっていて、作業をやらない二人組が集中砲火されている。ひとりの子がキレているので、みんな同調して不満を述べているという状況。私が見る限りでは、みんながみんなキレているわけではなさそう……な。だけど怒っていないというのも間違いで、キレている子に引き出されて、みんなが不満を言うという状況なんだろうな。だれだって作業をやってくれない人には負の感情芽生えるだろうし。キレている子に対して同じように同調して怒っていた子もいて、その子は責任感の強さから注意してくれたりもしたんだけど、案外怒っていなかったということがわかってちょっと安心した。人に迷惑をかけることはいけない……という責任感で注意したりしてくれたらしい。傍観者の私とは違って良い人だな……。私もべつに二人組に関して何も思っていなくて、まあ、あのまま作業が進まなかったらさすがに危機感からいらっとしていたとは思うんだけど、全然何も考えていなかった。ただ、あの人たちの作業をやらされた人が可哀想だ。それだけ、それのみに尽きる。でも、そうわかっていても、とくに怒れないんだよなあ。ひとが怒っているときに自分も怒れないと、私って人に興味ないのかな、と思う、とこぼした。

 

なーんかなー。意外にみんな人に合わせてるだけだったりするから、ひとの言葉を真っ向から信じすぎちゃいけないなーと思う。言葉にかぎらず、態度、もろもろ。それをわっかんない人に対してあたしはむかつくわけですよ。見えてる部分が全部だと思うなって思うわけですよ。自分に見えていることがすべてではないという「可能性」すらもたないの。目立つ人が、主張のできる人だけが評価されていくの。そこにもやっとしてしまう。評価されなくてもいいからあたしはあたしでいたいと思うか、評価されたいならどんどん本音を言って主張していけばいいと思うか。評価される場でせいいっぱい頑張るのも大人なのかな。うん……。そうなんかな。評価と人格は結びつかないって先生も言っていたし。でもそれが意外にそうでもないって気がするな。頼れる先生は評価と人格は別だってわかっているけど、頼れない先生はそうじゃないから。評価と人格が結び付けられてた環境にいたから、先生という存在が未だに怖い。

 

そうか……。そうかもな。評価と人格がべつだって、わかっていないんだ。あたしがね。怖いし、心臓がバクバクする。泣きそうになる。いつでもそのことを思いだして病んでしまう。頭でわかったとて、だよな。他者に認められた自分しか自分だと認められない。ふん!そんなのどうでもいいね!!!!!!見返してやるわ。なんにしろせいいっぱいやってそれが認められなかったらあたしもそこまでということですから悔いはないです。改善してやっていくだけです。ただあたしが恥ずかしかったのは一生懸命やっていないということですね!!!!もっと努力しますね。

11月27日(水)

前の日記見てたら「うるせー!!」と言いたくなる。どうでもいい事を理屈でうじうじと考えているところがほんとうにいや。疲れているなら疲れている、それでいいじゃないの。
つらくて苦しいってことは変わらないんだから、それに対してこれはああだからうんぬんかんぬん、と頭で考えて出した結論なんてこれっぽっちも意味がありません!頭で考えるのが間違っているからです。頭で考えて解決できると思う時点で、どこか傲慢……自分の世界に入り込んでいる。それってほんとうにみっともない。他人に対してはみっともないとかそこまでは思わないけど、自分の世界に入り込む自分は、嫌だなあと思う。そうなりたくないってだけ。
すべては時間が解決してくれる。おとなになれない今の時期がほんとうにくるしい、急いで大人になる必要はないし、大人の真似をしたってすぐにばれる。と、こういう風に考えてること自体が小賢しいよね。

何も考えないって難しい!何書いても自意識強い人になって嫌になっちゃう。もっと正直になれればいいのに。つらいくるしい、は真正面から向き合っても意味ない。耐えるしかない。つらくて苦しい、ということを認めることが大事、そこからどうつらくて苦しい現実に向き合うかはその人次第。

気分転換したいな〜!疲れる。楽しいことや好きなことを考えてたいな。それだけで死んでた気持ちが生き返って、楽しくなってくる。明日が楽しみに思えてくる。好きなことを見つけるって大事、、。やりたいことをやるってすごく心のエネルギーになる。

考えなくていいことを考えない。その取捨選択って難しいな。人に話すことや、こうして書くことをしないと、自分の世界に入り込んでいるだけっていうのに気づけない。

11月5日(月)

お久しぶり。また前とは全然違う私になっていると思う。多分。

もう寝なきゃいけないのに寝る気にならない。いつもそう。寝る時間になっていろいろ考えごとをやりたくなって、スマホに文章を打ち込むんだよな。誰に見せるわけでもないのに。

最近のことっていったら、何があるだろうか?とくに以前と比べて書くようなことも、あるといえばあるしないといえばないというか。要するにめんどくさいですいちいち書くのが。そう……前と変わって、悩むことはないのよね。ただ単純に、夏休みを経てほとんど気が楽になったというか。世界に対して心を開いたというか。それは1年のころから徐々に外れていってたものが、2年後期にしてようやくほぼすべて剥がれかけただけだと思う。慣れてきた。今まで自分の思う自分の中でしか暮らしてこなかったんだ。それがどうでもよくなった。自分で自分はこういう性格だと決めつけて殻にこもるのは良くないんだ。

それでも私はやっぱり、私自身がどういう私であればいいのかよくわかっていないと思う。いまだにうじうじ悩むし、他者と比較してしまう、劣等感は根深く残っていて、これに対してどう対処したらいいのか分からない。時間ができれば何かしなければいけないことがあるような気がしていつも焦る、私が私のままではいけないような気がしていつも不安になる。不安が募って募った末に泣き出してしまう始末だ。ひとりきりになったときに顔を覆って泣いてしまいたくなる。決して自分を可哀想と思いたいわけじゃない、悲劇のヒロインぶったり被害者面するのは私がとっても嫌いなことだし、やりたくないんだけど。私が私である根拠って何?どうしてみんな何もせずに生きられているのかしら。私は何かを言わなきゃいけないような気がする、誰かに何か伝えなきゃ私が私でなくなる気がして怖い。怖いというより、不安。爆発しそう。そういう不安から、普段考えていることやぐるぐる悩んでいることをnoteとかに書いて誰かに伝えようと思うんだけど、書いて、書き上げるところまではいいんだけど、やっぱり誰にも見られたくなくなって、誰かに見せる前に消してしまう。どうして人に見せられないのかわからない。臆病なだけ?結局どう思われるかを気にして何も言えなくなってしまうんだろうか。後先を考えすぎて、結局口をつぐんでしまう。私は頑固なわりに人前で自分の思っていることを言えない。自分が正しいと思っているからこそ誰かに見せるのが怖いということかな……。

もう3時だ。明日起きられるかな……。

9月10日(火)

なんだかそう複雑に考えるものでもない気がしてきた。ずっと複雑な気持ちが燻っていて、ことあるごとにもやもやする。なんだかなあ。なんか悲しい。なにが原因かわからないのにいつも不安でいっぱい。なにも原因はないのになあ。

 

最近、私が感じている違和感の正体は、感情をあまり表に出せないということなのではと思いはじめてきた。私のもとの性格だと思っていたので、他人から見た私と本来の自分にズレを感じても、もう勘違いされてもなんでもいいやと思いかけていた。あまり話さなかったり、あまり笑わなかったりすると、どんどん周りの思う「私」像ができあがっていって、それが堂々としているように見えるとか、自信ありそうに見えるとかいう評価になっていって、微妙に傷つく。同級生だけではなく、先生にも、あまり驕らないように釘を刺されることが多くて複雑だった。驕ったおぼえはないし、むしろ周りよりできないと思っているのに。動じないくらい自信があるんじゃなくて、自分を出すのが怖いだけだ。むしろ自信は人並み以上にない方だと思う。思っていることや感じていることは基本押し込める性分で、そういうのが溜まってきたからだかなんだかわからないけどだから詩なんて書きはじめたのじゃないかな。私はいつも何かを殴りたくて、感情的で暴力的で、訴えかけないと気がすまないのかもしれない。だれかに感情を伝えて殴らないと意味がない。私が生きている意味がない。だれかに、私だって意志があって感情があって思うことも考えることもあると伝えないと、そしてそれによってなんでもいいから心を動かしてくれないと私がここにいる意味なんてないのだ。これっぽちも。ひとりで生きていける人間なんてどこにもいない。なにかしら感情を分かち合える人がいないとやっていけないのだと思う。実感としてそう思う。

 

毎日毎日すこしずつ小さなモヤモヤを溜めていく。まわりの人を責めるつもりではなくて、ただ原因はすべて私に起因していて、それが育ちとかなんだかに関係するのかもわかんないんだけども、(そこはそこで複雑に暗い気持ちで考えずにはいられない問題ではあるんだけども、)ただなんか……そういうのをいちいち言ってても仕方ないって思う。いちいち向き合って考えていると疲れる。いまさら何を悩んで何に苦しめばいいんだろう。なにもかもしょうがないし、ただ私には私という存在がいるだけで、それ以上でも以下でもないものをどうにかできるだろうか。嘆くこともない。いまさら嘆く気にもならない。へたへたになった茄子みたいに、生きるだけだあとは。

 

9月4日(水)

はてなブログを書いてると暗くなるので書かなくなっていたけど、久しぶりに読み返すと正直な自分でいいなと思った。自意識過剰な思い込みも、自分の檻の中で完結した机上の空論的な考えも、誰かに読まれると思えば恥ずかしいけど、ぜんぶその時ほんとうに存在していた私で、正直だからこそ自分の馬鹿さに嫌になってはてなブログを書かなくなった。手帳とか読み返しても大体体調が悪くて元気がない。私そんなに元気ない?って自分でびっくりする。思い返すとそんな事ない気がするし、むしろ毎日元気だった気がするから不思議。ほとんど「気分が沈む」「なんとなく具合が悪い」「泣きそう」から始まっていて、調子がいい日がない。焦るか不安になるか具合が悪いかのどれかには絶対当てはまっていて、むしろこれがデフォルトの状態で生きてるから、うっすら調子が悪いのがデフォルトの中で、笑ったりご飯食べたり楽しかったりしているんだろうな。よくわからんけども。でもそうじゃなきゃ説明がつかない?というか。感覚としては毎日楽しいんです。とくに不幸なこともないし。嘆くこともないし。

はてなブログを身近な人に見せるか見せないか問題はずっとあって、そりゃ誰かに聞いてほしいから手帳に加えてこんなめんどくさいことしてるんだと思うけど誰かに読まれるということを意識した途端に正直なことが書けなくなりそうで。つくったものになりそうでこわくて結局はひとりでやってる。べつに誰かに見せても変わらないのかもしれないけど。でもこのブログに限らず、「自分」がバレそうなものを見せるのが怖くて怖くて仕方ない。作品についてもそうだ。「自分」が出ていないか徹底的に確かめてからでないとこわくて見せられない。未熟、というより、自我がでていないか否かがこわいから、はやく成熟しなければと焦っていた。徹底的に客観視しないとダメだ。それも行き過ぎるとおもしろくないということはわかっているけど怖さに打ち勝てない。開き直れない。ほんとは完璧なものでないと誰にも見せたくないのだ。完璧とかありえないとわかった上で言うけど。

自分に向いてないことが多すぎて嫌になる。ほんとにみんな当たり前にできてることがなにもできないというコンプレックスが強すぎて、いろんな状況でうつうつとする。「みんな」という輪の中にいることがどこか信じられなくて、何が正解かわからなくて、間違えてないか不安で、些細なことでいつも動揺している。「みんな」といることが嫌なわけじゃないし、むしろ楽しいし、ふざけたり笑ったりすることももちろんあるんだけども、私の居場所ではないと思う。疎外感だけはどうにもならない。まわりはみんな親切で優しいのにそう感じる自分や、同じものを返せない自分に価値がないような気がして、いつも悩んでいた。周りと同じにならなきゃということ自体、「自分」の無さの表れのような気もするな。逆に相手に失礼というか。べつにおのおの好きなようにやればいいのであって、じっさい周りは自分のありたいようにあるのに、合わせようていう精神自体が幼いのかもしれない。でも思えたら変われるかと言ったらそういうものでもないからみんな困ってるんだよね。私の場合は基本手帳に文章を書くことで、あとはより良い詩を書くとか大好きなファンタジーを手遊びで書くとかそういう方向で自分を支えている気がする。周囲に馴染めなかった言い訳が欲しい。なんでこんなしんどい思いをしなきゃいけなかったのか、その言い訳がほしい。そのための言い訳として自分に才能があると思い込むこともできるんだけど、感じていることはみんな変わらないし、自分だけが感じると思っていたことは、みんなが感じていることで、私だけに特別な才能があるわけではないんだなとひしひし思う。私は自分を表現する唯一の手段を得て、力ずくでこじ開けていっただけだ。技術を得ればもっと自由になれるから、呼吸するためだけに必死になっていたらいつの間にかここまで来ていたという感じ。今はもうだいぶ自由になったので、以前と比べて必死さはなくて、書いても書かなくてもいいという感じではある。なのにぼちぼち書いているので、これからも書いていくのかなぁという気はする。結局日本語が好きだし、常にどこかにより良いものを書きたい気持ちは燻っている。

7月9日(火)

過去の日記めいたブログを見返すと、何をそんなに思い詰め、頭で考えていたのだろうと思う。理屈で考えたってどうしようもないことを、神経質になんどもなんども、繰り返し考えている。なにがそんなに不安だったのだろう?なにがあなたをそんなに追い詰めていた?一生懸命、自分のうちがわだけでうねうねうねうねと考えている。自分のまわりに檻でもあったのでは思うくらい、自分ひとりでどーでもいいことを考え悩んでいた。そんなこと考えたってどうしようもないのに。

今の自分と数ヶ月まえの自分が、まったくの別人すぎて、そんなこと考えてたんだ、と思うことが多い。ブログでもそうだけど、ほぼ毎日文章を書いている手帳を見返すと、自分はこんなことを考えていたのかと驚いてしまう。

なんのおかげかまっまくわからないんだけども、ある日とつぜん、解放的な気分になって、だれにでもなんにでもさらけ出せるような気がして、それからはもうずっと精神的に健康な状態が継続している。あまり病まなくなった。今まで必死に隠そうとしていたもの、見せないようにしていたもの、そういうのが全部どうでもよくなって、昼の陽が差し込んだみたいにぱーっと明るくなった。最初はぱーっと明るくなりすぎて、(自分を解放しすぎて、)一方的なコミュニケーションになりがちだったけど、のちのち配慮や適切な距離感は必要だと思い直して今に至る。すべてが楽とはいかないし、むしろ悩んだり考えすぎたりすることのほうが多いけど、どうでもいいことで頭を悩ませることは無くなったかもしれない。でも、うねうね陰湿に考えていた時間があったからこそある日とつぜんどうでもよくなったのかなと思う。本当にある日とつぜんだった。いつもどおり登校していて、今日は調子がよくて、いい天気だなと思っていたら、ほんとうに光が差し込んだみたいだった。自由だと思った。今まで考えていたことがどうでもよくなった。

4月20日(土)

なんかもう色々不安定だし、なにかしないと落ち着かないしただの自分であることがいやっていうか、何者でもないんだなって。あたしはただのあたしでしかなくてそんな自分がここにいて息をしていることすらいやだし、何者でもないくせにどうして詩なんか書いているんだろう。そんなん、自分がすごいというか、自分がそちらに才能を発揮すると思っていなきゃできないことでさあ、詩を書いたってなんだってそれはどこにでもありふれたものでしかないとわかってしまったら心も折れるよね。消えたくてしかたない。とりあえずなんかすごい人になりたくて、でもそれと反対に現実はふつう、あまりにもふつう。泣きそう。泣きそうなのは今自分が不安定だからなんだけど。授業がはじまって一週間のうちは楽しかったしだいぶ心にも余裕があったのに日曜日をすぎたあたりからもうなんだか余裕がないしなにもかも嫌って気分。それはあたしとは関係ないからまあ大丈夫だろうとは思っていたけど、ちょっとつらそうにしてしまった。あまり表には出したくないんだけど。

 

今もその気分が抜けなくて焦っているからこうして書いている。とにかくなんかさみしいのかもしれないね。今日はバイトを休みにしておいた。店長が勝手にあたしは土曜日出勤できないと勘違いしていて今月は日曜日だけしか入ってない。自分の様子も最近よくないのでまあいっか、と思った。5月ごろがいちばんきついというし。

 

あたしは何者でもないかもしれないという焦りとか不安は、結局詩を書いていくことでしか紛らわせない気がしている。とくべつではない私にあらがいたいとかではなく、漠然とした不安や焦りのために必要な支柱みたいなそんな感じ。添え木?うまくバランスがとれなくてぐらぐらするところにちいさな木の棒の端くれを置いてみるみたいな。発狂したい……。

 

 

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もうお昼だ。どうしよう……。とりあえず不安だしなにかしてないと落ち着かない……。自分一人でいるのがこわいな。かといってどっかに行く気にもなれないしさ。せっかく今日休みなのにどこかに行ってしまうと後々疲れるし……。本にも集中できなくて困るし、とにかくなにかつくらなきゃ……書かなきゃ……みたいな感じで。今なんかとにかくもう……もうね。

 

書いてたら外晴れてきた。なんか前向きになってきたわ。うじうじ言ってても仕方ないね。ちょっと元気でた。まあいいや。え?よくないかも……。YouTube眺めてるだけで終わりそうな感じもする。詩を書く気もなくなってきたしなあ。