自分の問題は生々しすぎてあまり書けない。だれにも見せたくないような、自分の自己中心性に呆れたくなるようなことばかりだから身近な人に見せられることって全然ないよ。どうしてみんな自分のことをああやって書けるのかな、私は無理。うまく距離がとれないっていうのかな、こういうの。いま気持ちがつらいから暗いことばかり書いてしまうかもしれない。見返したらまたバカバカしくなるんだろうな。
書こうと思ったのは自分のもやもやっとした考えを可視化するため。わかったつもりになるのがいちばんタチ悪いってわかっていながら案外自分がその罠にかかっていると思う。このあいだnoteに詩について書き出してみたんだけど、かなり自分の頭の中の理屈に固執していて、話が飛躍してることに気が付かなかった。根拠って大事だとこういうときに思った。頭の中の理屈といっても、さんざんノートに書いてきたと思っていたんだけど、そしてその考えに妙に自信を持っていたんだけど、ただ「こう繋がっているんじゃないか!?」という直感による網をかけただけで、根拠は何もないし、いざ説明しようとしてみると何も説明していることになっていなくてがっくりきた。こんなのに長い間私はこだわっていたんだと思った。時間の無駄じゃないか。
考えているって言っても、何を考えているんだろうなあ。何も考えていないし、何かずっと常に考えているとも言える。でも、最近、何も考えていないという立場に甘んじることはやめようと思った。書くことで、文字にしてはっきりとした断定や判断をしてしまうことで、何かを見落としたり、何かを傷つけたり、間違った方向に思い込みが進んでいく。それがいやで、いつもつねに柔らかい人でいたくて、考えることを放棄してわたしは何もわかりませんというスタンスでいた。だけど、何も考えないし、何もわかりませんというスタンスでいるわりに、やっぱり醜く他者を判断したり物事を判断している自分がいることは感じていたし、なにより他人といる中で、私は何も判断しませんというぼんやりした姿勢しか持たないのは卑怯な気がしてきた。創作のことに関しても、何もわかりませんではその先に進めないのだと思う。しっかり自分のわかっていることとわかっていないことを明らかにして勉強していかないと。ただし文字にとりつかれないように。
だからといって、「判断しなければならない」が先に来たらだめだ。何のために判断することに決めたのか、本末転倒になって、自分が傷ついていく。些細な勘違いが重なることでつらくなっていくと思う。表面のことだけですべてを判断したくない気持ちは同じ。それはずっと変わらないし、変えていきたいとも思わない。考えるべきことと、考えないでいいことの区別をつけたほうがいいのかもしれない。それもまたひとつひとつ考えていくというより、流されない自分を見つけていくことが重要かなと思う。その芯があってはじめてあたしがあたしとして機能していられる、うそのない正直なわたしとしてここにいられるんだと思う。
いつも疲弊してくのは、些細なことの積み重ねだ。いつもなら周りに合わせてしまうことを無視して行動したことで、みんなが無視していることを私は無視できていないんだと気が付いた。いつもならいくら車が遠くから来ていても車が止まってくれるのを待って横断歩道を渡るのだけど、その日は「そっちが止まってくれ」という気持ちで横断歩道を渡ることができた。なんだ、みんなこういうふうにしていたんだ、と思った。車からしたら今までの私は「渡れよ」って思われていたかもしれない。他者を優先するなという話ではなくて、きっと過度に他者を優先しすぎて、逆に迷惑になっている。自分も意思を持たなければそれなりに迷惑はかかってしまう。それはどうしてだろう、と考えてみると、みんながそれを前提として動いているから、という答えしか出てこない。ある程度は自分の問題として、ある程度は他者の問題としてわきまえている。その線引きをみんな無意識にできている。私はできなくて、かなり努力しなければならなかった。自分が理由もわからず他人の迷惑になっていることは苦しい、すごく理不尽。無意識にできる人はすごく恵まれていると思う。親か、だれかが、それを教えてくれたんだと思う。
【日記】
ここからはもっと雑多に、今日や最近のことなど。今、クラスで冊子を作るグループワークをやっていて、作業をやらない二人組が集中砲火されている。ひとりの子がキレているので、みんな同調して不満を述べているという状況。私が見る限りでは、みんながみんなキレているわけではなさそう……な。だけど怒っていないというのも間違いで、キレている子に引き出されて、みんなが不満を言うという状況なんだろうな。だれだって作業をやってくれない人には負の感情芽生えるだろうし。キレている子に対して同じように同調して怒っていた子もいて、その子は責任感の強さから注意してくれたりもしたんだけど、案外怒っていなかったということがわかってちょっと安心した。人に迷惑をかけることはいけない……という責任感で注意したりしてくれたらしい。傍観者の私とは違って良い人だな……。私もべつに二人組に関して何も思っていなくて、まあ、あのまま作業が進まなかったらさすがに危機感からいらっとしていたとは思うんだけど、全然何も考えていなかった。ただ、あの人たちの作業をやらされた人が可哀想だ。それだけ、それのみに尽きる。でも、そうわかっていても、とくに怒れないんだよなあ。ひとが怒っているときに自分も怒れないと、私って人に興味ないのかな、と思う、とこぼした。
なーんかなー。意外にみんな人に合わせてるだけだったりするから、ひとの言葉を真っ向から信じすぎちゃいけないなーと思う。言葉にかぎらず、態度、もろもろ。それをわっかんない人に対してあたしはむかつくわけですよ。見えてる部分が全部だと思うなって思うわけですよ。自分に見えていることがすべてではないという「可能性」すらもたないの。目立つ人が、主張のできる人だけが評価されていくの。そこにもやっとしてしまう。評価されなくてもいいからあたしはあたしでいたいと思うか、評価されたいならどんどん本音を言って主張していけばいいと思うか。評価される場でせいいっぱい頑張るのも大人なのかな。うん……。そうなんかな。評価と人格は結びつかないって先生も言っていたし。でもそれが意外にそうでもないって気がするな。頼れる先生は評価と人格は別だってわかっているけど、頼れない先生はそうじゃないから。評価と人格が結び付けられてた環境にいたから、先生という存在が未だに怖い。
そうか……。そうかもな。評価と人格がべつだって、わかっていないんだ。あたしがね。怖いし、心臓がバクバクする。泣きそうになる。いつでもそのことを思いだして病んでしまう。頭でわかったとて、だよな。他者に認められた自分しか自分だと認められない。ふん!そんなのどうでもいいね!!!!!!見返してやるわ。なんにしろせいいっぱいやってそれが認められなかったらあたしもそこまでということですから悔いはないです。改善してやっていくだけです。ただあたしが恥ずかしかったのは一生懸命やっていないということですね!!!!もっと努力しますね。