一昨日くらいに書いた、自分のことをどこも信じられないという感覚。すべてそこに集約している気がして、私は私で信じられる自分をつくっていかなければならないのにできてないという気持ち悪さにとりつかれている。今すぐにでもこの世界のことを解釈し、考え尽くし、嘘偽りのない言葉で示していかなければならないような。嘘をついたらだめなのだ。そんなのは気取った私でしかなくて、他者のために格好をつけた何かでしかない。中身が伴わなくて気持ちが悪い。そんなものを「私」だと認識されるのも癪だし、なによりそんなふうに他者のまえで何かを演じてしまう自分のことが許せない。だから私には何も言えなくなるのだけど、何も言えないとわかっているからこそ、今すぐ私は私の目でものを見て、判断していかなければならない焦りがある。嘘をつかない、よけいな言葉をつむがない人にならないといけない。自分のことをどこも信じられないぶん、まっさらなところがあって、そのまっさらさゆえに自分はずっと苦しんできた気がするけど、かわりにどこまでも透明な、川底がみえるような水にならないといけない。そのためにはきっとものすごい量のことを考えて、書いて見つけていかなければならない。私はまだまだよどんでいる。そんな気がする。
話は変わるけど、『伯爵と妖精』を読んでいて、小さい頃に読んでいた物語をよく思い出している。セルキーやら、フェアリーリングやら、子どもながらにそういうものの存在に惹かれていたことを思い出す。とくにフェアリーリングの伝説は好きだったなあ。ほんとうにありそうなところがいいのだ。とても身近で、よく知っているけどわからない。妖精といっても、きらきらきゃぴーんな感じの、フェアリー☆って感じの妖精ではなくて、醜いものもあれば人間サイズのものあれば動物の姿のものもあるような妖精。『伯爵と妖精』の世界観ではきちんと伝承に基づいた妖精が出ててくるので、そういうところに昔読んでいたものを思い出して懐かしくなったんだろうな。
ほんとうにありそうだから惹かれる、と思うけど、妖精自体の姿が見えるとか、いるに決まっているとか、妖精の世界があるはずとか、盲目的に信じるのとは違うよなあと思う。ただ身近にある小さな痕跡に、そういうものの存在があってもおかしくないと思うような、空間のようなものがあって、そういうところに何かを感じてしまう、そこに「妖精」という名まえをつけると不思議と納得がいってしまう、よく知っているような気がしてしまう。なんでなのかはわからないけど「妖精」のそんなところに惹かれる。以前ファンタジーのことについて調べていたとき「妖精学」というものがあるのを知った。たしか図録のようなものもあった。当時は興味がなかったけど、ちょっと調べてみようかな。